第4回スタッフインタビュー(看護師 松島)

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今回は看護師として現地で活動し、2013年6月に一時帰国した松島看護師へのインタビューです。

 

 

 

 

 

 

看護師 松島 麻理絵(まつしま まりえ)

2004年正看護師国家資格取得、国内の病院勤務を経て、在カンボジアNGOで国際協力医療活動に従事

2011年 医療法人社団KNI入職

(聞き手:NGO日本医療開発機構 個人会員 清水 眞理子)


 

 

 

 

カンボジアとの出会い

松島:2009年から日本の国際医療ボランティア団体でミャンマー・カンボジアの子どもを救う医療事業に参加しました。うちカンボジアにはのべ1年半滞在、短期赴任の医師と村をまわって移動診療をおこない、手術が必要ならそのアレンジも試みました。

――純然たるボランティアだったのですか?

松島:はい、1年半は完全に無給ボランティアでした。それまで看護師として働いて貯めたお金がありましたから、医療を受けられない途上国の子どもたちを救えるのならと、迷いはありませんでした。毎日ボランティアに徹して治療やケアを行い、多くの患者さんに喜ばれました。

でも時間がたつうちに、一方的な援助には限界があることがわかりました。外国人が一時的に来て困っている患者さんを治療して、そのご家族にも喜んでもらう。病院は患者さんが来ることで報酬を得るけれども、治療、手術に現地の医師は参加せず、医療スタッフのスキルアップにはつながらない。カンボジアの10年20年先の医療を考えた場合、はたしてこれでいいのか、このままではカンボジアの医療と社会の状況が益々悪くなるのではという気がしていました。

帰国直前、北原理事長との食事会に参加

松島:後任者も決まり帰国の準備をしていたころ、北原先生がカンボジアに調査事業で来られました。北原先生が主催したNGO、JICAスタッフとの食事会があり、私も参加しました。そして皆さまご存じのあの理事長の熱い語りで「一方的な単発的な支援は何も変えられない、一致団結し多くの人を一度に育てる場所を作らなければならない」「日本の医療の衰退にも歯止めをかけなければならない」「これは今やらなければ手遅れになる」という言葉を受け、今までもっていた迷いや違和感に対する答えをいただいた気がし、仰っていた意味が良く理解出来ました。迷いはしましたが、帰国3週間後にはKNIに入職していました。それと同時に日本医療開発機構にも関わらせて頂くようになりました。2011年秋のことです。

日本医療開発機構が目指すカンボジア・プロジェクト

松島:カンボジアの医療レベルを底上げするには人材育成が急務ですが、難しいなと改めて感じています。こちらでは仕事上の役割分担がはっきりしているわりに、責任の所在があいまいで、全体を見通せない、それぞれの作業がスムーズに流れない。

そして日本なら手術を担当した医師は何かあればすぐ駆けつけますし、いつも気にしています。それが、患者さんが麻酔から覚めないうちに何も言わずに帰宅したり、オンコールが理解されていないのかアルバイトが忙しいのか、患者さんの状態が悪くなって夜中に連絡しても電話にでない、最後には電源を切られてしまったのか「電波が届かないところに・・・」のメッセージ。本当に同じ医療者として悲しくなる時があります。技術面では術前麻酔の気管挿管がおぼつかない麻酔科医師もいました。開頭手術では見守るはずの理事長が見かねて教えながら手術したこともあります。

医療従事者の共通ルールの策定が必要

――衣食足りて礼節を知るということですか

松島:日本の脳外科では医師3人でもうまくまわっています。プライベートの時間を大切にするのは悪いことではありませんが、医療の現場は時間通りにはすすみません。人の命を預かっているわけですから、緊急事態が発生すると就業規則時間内に終わらせたくても終わりません。患者さんの状態を本当によくしていきたいと思う気持ちを共有し、そのためにどうすればいいかを考えてほしいと思います。

片麻痺、脳梗塞、高血圧という言葉は教養のある一部のカンボジア人には浸透してきましたが、患者さんはそのような状態になってもどこに行ってどう対処したらいいかわからない。開頭手術のイメージもつかめない。リハビリの概念もないので、病状や治療の必要性の説明が難しく、説明に時間をかけても誤解を生むことがあります。これからの課題だと思います。

――カンボジアでの生活はいかがですか?

松島:現在、看護師2名、理学療法士2名、ロジ担当2名でがんばっています。カンボジア人の英語が堪能な男性看護師コサル君も意欲的に仕事をしてくれています。

在留届を出している日本人だけで約1200人、停電はたまにありますが、スーパーでも日本食の品揃えはよくなってきて、そうめん、納豆、カレーなどもならんでいます。

“日本の医療を輸出産業に”・・・理事長が20年以上前から考えていたことが今やっと日本でも注目されてきました。少しずつではありますが前進しています。

皆さんの応援という追い風が吹いてがんばれます。やり遂げなければと思います。